人生二回目の留年をした話

留年をした。通知というか、自分を留年をするんだと気付いたのは約二年前の夏の学期末テストの後の事だった。
正直な話をすると、自分自身それほど頭がいいわけではない。私が通う学校の単位認定基準は学期末テストで点数を六割超えていること。また、規定回数授業を受けていること。以上の二つだ。普通に暮らしていれば難なくクリア出来る基準である。
が、それをクリア出来ない者も、一定数いる。というか、私だった。
数人が学校をやめていく中、私は学校に残って取れなかった単位を取る事に決めた。二回目の二年生である。
人生の夏休みが始まった瞬間だった。
私の実家は静岡であり、私は学校に通うために神奈川県の某所で一人暮らしをしている。親の監視の無い中、週に二回あるかも怪しい講義を受けるためだけに神奈川に住む。かつては同級生だった友人たちが汗水垂らして実習に勤しむ中、私は明け方に眠り、昼過ぎに起きて、時折講義に行き、バイトをして遊ぶ金を稼いだ。友人達が実習の記録を纏めているであろう間、趣味の同人誌原稿をせこせこと書き上げた。
勉強不足で留年したようなものだが、何の目標もない空白の一年の中で努力出来るほど人間は出来ていなかった。
まさしく、夏休みだったのだ。

所謂私はオタクという人種であり、勉強よりも実習よりも、アニメや漫画、SNSに没頭する時間の方が遥かに長かった。
おまけに、自分でものを書いて出版する、という行為に快楽すら感じていた。
努力をすることが大嫌いだった。

無為な一年は、すぐに終わった。勉強なぞ落とした単位を履修するためだけの勉強しかしていない。来年には国家試験が控えていた。
卒業していく友人を見送って、私は念願の進級を果たした。
三年に上がると、ほぼ授業はない。その代わりにGW明けから冬までの半年間、毎日実習に行く事になる。
看護学生100人に学校生活の中で何が一番つらかったか、と聞けば、恐らく九割は実習が辛かったと答えるだろう。私もそうだ。
とにかく朝は早い。自宅から一時間かかる病院に八時前には到着、着替えて点呼。事前に考えてきた一日の行動スケジュールに滅茶苦茶にダメ出しをくらい訂正、五時まで患者のそばについてやれ清拭やら足浴やらトイレ介助やらを行う。空いた時間で患者のカルテを書き写し、その情報から患者の状態がどうなのかを教科書とにらめっこしながらだらだらと指定されたプリントに書いていくわけだ。それを二週間1クール×半年続ける。書いているだけで気が滅入ってくる。
それを半年間こなして、10月になった。実習が終わってようやく一息つけたかと思えば、次は2月の国家試験にむけて勉強漬けとなる。

定期的に行われていた模試の結果は、よくてC判定だった。要努力。
けれど私は、驚く程に危機感がなかった。なんとかなるだろうと思っていた。
国試には落ちても、卒業は出来るだろうと思っていた。
誰だってそう思っている。自分だけは大丈夫、と。大丈夫じゃなかったのが、二年前の留年だったというのに。

自己採点をして、気付く。
必修が三点足りない。二回目の留年が決まった瞬間である。

教師の前で泣いた。親との電話でも泣いたが、正直、自分に泣く資格などないのだ。だって、努力らしい努力なんて、殆どしていない。たった三点で、人生は狂うのだ。その三点を取れなかったのは、自分の努力が足りなかったから。
看護師になれないから泣いたんじゃない。そもそも、看護師になんてなりたくない。
他に何も思いつかなかったのだ。

母親に謝罪をされた。
貴女が看護学校に進路を決めようとしたとき、止めれば良かった。やりたい事をもっと真剣に考えられるように、話を聞いてあげればよかった。
違うのだ。

結局、私はもう一年、学校に通うことに決めた。卒業して、国家試験を受けるために。
看護師になんてなりたくない。けれど、何もしたいことが思いつかない。何をやるにしても、結局また学校に通わなければいけない。なにより、あのクソのように辛かった実習を無駄にしたくない。

二度目の留年をしても、私は変われていない。

2月になった。看護国家試験まで、あと一年。